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反町敏彦

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〒940−0007
長岡市黒津町1832
TEL 0258−24−6024
FAX 0258−24−6204

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新潟県長岡市のご紹介

 


長岡は、じつはコシヒカリ発祥の地です。

 昭和19年、新潟県農業試験場(長岡市長倉町)・杉谷文之によって、農林1号と、農林22号をかけ合わせて作られました。コシヒカリ(農林100号)の 名前の由来は「越の国に光りかがやく稲」という意味です。
コシヒカリは生育のしすぎると倒れてしまうので、肥料の与え方を加減するのがむづかしいのでうす。

 NHKの人気番組『プロジェクトX 挑戦者たち』で、このコシヒカリ誕生秘話が紹介されました。
  『プロジェクトX 挑戦者たち』 2000年10月24日放送
   「うまいコメが食べたい」 〜コシヒカリ・ブランド米の伝説〜
 →上記リンクを表示したら、左のメニューの「これまでの放送内容」からどうぞ

新潟県内有数の米の産地です。

 長岡市は、新潟平野の南端に位置し、東西には東山連峰と西山丘陵地がそれぞれ連なっています。また、中央を南北に信濃川が貫流し、左岸地域には数段の河岸段丘が広く分布しているのが特徴です。
 信濃川を軸として形成されてきた長岡市は、四季の移り変わりが鮮やかで、美しく豊かな自然風土に恵まれています。その気候は、夏は高温多湿である一方、冬は季節風が強く、降雪があるという日本海側特有の傾向がみられます。
 長岡市はコシヒカリに代表される県内有数の米の産地であり、約12,800人の農業従事者がいるという特徴があります。

>> 水土里(みどり)電子博物館
 http://www.maff.go.jp/nouson/sekkei/midori-museum/index.htm
>> おこめができるまで
 http://www.hokuriku.maff.go.jp/riceland/riceland8-1.html

新潟のコシヒカリがおいしい理由。

 新潟のお米がおいしいと言われるのは、寒暖の差が大きいという気候の特徴からきています。そして、おいしいお米は、酒造りや米菓といった関連産業の発達にっも寄与しています。サッカーJ1のアルビレックス新潟のオフィシャルスポンサーは亀田製菓さんです。銘酒といわれる「久保田」や「越の寒梅」もこの新潟で生まれました。
 
新潟のコシヒカリが美味しい理由のひとつに涼しい気候があります。いもち病にかかった場合でも病気の進行が遅く稲への被害が少ないのです。
 また、信濃川で水が豊富に利用できます。また名水も多く、湧き水がおいしいお米を作り出しています。

>> JA越後ながおか
 http://arc.fujitv-mirai.com/nagaoka/
>> 北陸農政局 新潟統計・情報センター
 http://www.niigata.info.maff.go.jp/
>> 北陸農政局 長岡統計・情報センター
 http://www.niigata.info.maff.go.jp/nagaoka/nagaokatop.html
>> 農林水産省 北陸農政局(新潟・富山・石川・福井)
 http://www.hokuriku.maff.go.jp/riceland/ricelandtop.htm

ご存じですか?日本一の大花火。

 毎年8月2日、3日に行われる「長岡まつり大花火大会」は全国から80万人もの観光客を集める花火大会です(長岡市の人口は現在19万人)。二日間で合計20,000発の花火があがります。その歴史をひもといてみましょう。

 長岡花火の歴史は古く、長岡藩10代藩主牧野忠雅の時代、天保11年(1840)に川越移封の命が下り、翌年それが沙汰やみになったことを祝って「合図」を打ち上げたのがその発祥と伝えられています。
 本格的な花火は、明治12年9月14日と15日の2日間、千手町八幡神社の祭に長原などの遊廓関係者がお金を出しあって、四寸、五寸、七寸をあわせた花火350発を打ち上げたことが最初の花火大会といわれています。 その後、玉の大きさも尺玉、尺二寸玉の大玉が出現。さらには仕掛け花火や水中花火も見られるようになり、花火技術の向上と新しい花火の開発が進められました。
 明治後期には堤防沿い「桟敷」の設置、長岡市大煙火協会の設置など、長岡花火の基礎が確立されました。
 大正に入ると花火大会も全市的な催しとなり、玉の大きさも、大正6年に二尺玉 、15年にはついに正三尺玉が登場、人々の度肝を抜きました。大正末期から昭和初期にかけては長岡花火の一大発展期で、全国的にも広く知られるようになりました。 しかし、昭和12年を境に時局は急速に戦争へと傾き、翌年には花火大会も中止となりました。
 昭和20年8月1日、長岡市上空に125機のB29編隊が来襲し、焼夷弾による大規模なじゅうたん爆撃を行い、旧市街地のほとんどは焦土となりました。
 戦後の花火大会は、昭和22年8月1日、2日「長岡市戦災復興祭」の名で復活。 翌年からは8月1日を戦災殉難者の霊を慰めることに重きを置くことにし、花火大会を2日、3日に変更。
 さらには26年からは「長岡まつり」と名称を改めると同時に、正三尺玉 の打ち上げが復活しました。 以来、戦後の長岡復興の象徴として再出発した長岡花火は、市勢の発展と歩調を合わせ、名実ともに日本一の歩みを続けています。

>> 長岡まつり協議会
 http://www.city.nagaoka.niigata.jp/dpage/kankou/maturi/

>> 長岡花火デザインプロジェクト
 http://www.hanabi-chuetsu.co.jp

長岡に受け継がれる「米百俵」の精神。

 小泉首相の所信表明演説(平成13年5月7日)でこの逸話は一躍全国的に有名になりました。この「米百俵」は、救援米として贈られてきた百俵の米にまつわるエピソードであり、長岡市民がずっと受け継いできた大きな精神的遺産です。
 明治のはじめ、戊辰戦争で焼け野原となった長岡城下に、支藩の三根山藩(現在の新潟県西蒲原郡巻町)から見舞いとして百俵の米が贈られてきました。しかし、ときの長岡藩の大参事・小林虎三郎は、この百俵の米を藩士に配分せず売却し、その代金を国漢学校の資金に注ぎ込んだのです。
 この「米百俵」の故事は、文豪・山本有三の同名の戯曲によって広く知られるようになり、そして「国がおこるのもまちが栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ学校を建て、人物を養成するのだ。」という小林虎三郎の主張は、「目先のことばかりにとらわれず、明日をよくしよう。」という思想となり、多くの人に深い感動を与えています。
 このように長岡とお米とのつながりは運命的なものがあるのです。

>> 長岡市
  http://www.city.nagaoka.niigata.jp/

リンク集

>> 無農薬栽培関連リンク集
 http://village.infoweb.ne.jp/~masutani/rink/agri.htm

>> 生協・食品・有機栽培等
 http://www.ruralnet.or.jp/tokai/support/link2.htm

>> いまが旬!健康食材の宅配・通販
 http://watagonia.com/food/

 

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